首なし塚
福岡県古賀市青柳(三柱神社境内)
永禄十一年(1568年)、豊後の大友宗麟の重臣であった立花山城の城督、立花鑑載(あきとし)が宗麟に反旗を翻し挙兵。
同じく宗麟の重臣であった戸次道雪/鑑連がこの立花鑑載を攻め、現在の古賀市青柳の地にて自害に追い込みました。鑑載の首は豊後の宗麟の元に送られましたがその亡骸は青柳の地に埋めらたと伝えられます


夜泣き観音
福岡県糟屋郡新宮町原上360(千田交差点付近)
永禄十一年(1568年)、戸次道雪率いる大友軍に攻められた立花鑑載は立花山城から敗走。その妻と子は追っ手から逃れる為に立花山の麓を流れる小川に掛かった橋の下に身を隠しました。まだ乳飲み子であった子が泣き止まなかっので母が必死に観音経を唱えたところ赤ん坊が泣き止み命拾いしたと伝えられています。(他説あり)



戸次道雪の側室、色姫の墓
福岡県古賀市青柳某所(個人宅敷地内に付き詳細は控えさせて頂きます)
色姫は、道雪が筑前経営において長らく敵対していた宗像氏との和睦の際に宗像氏より道雪のもとに輿入れした姫です。色姫は宗像氏貞の妹で当時25歳でした。道雪が57歳だったと伝えられるので事実上の人質であったと考えられます。



太閤水
福岡県糟屋郡新宮町三代354
天正十五年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉が帰路となる上阪の途上、秀吉の茶頭を勤める津田宗及の案内で立ち寄った休憩場所。戸次道雪の婿養子(誾千代の夫)である立花宗茂は道雪亡き後、当時、九州を席巻していた薩摩の島津軍の猛攻に遭います。しかし、援軍となる豊臣秀吉軍の到着まで懸命に戦い、立花山城を死守しました。この戦いで立花宗茂は秀吉から『九州の逸物』と称され、天下にその武勇を轟かせました。


六所神社(六所宮)
福岡県糟屋郡新宮町立花口1125
道雪が戦勝祈願のために出陣前に参拝したとされる神社

戸次道雪公(立花道雪公)墳墓
福岡県糟屋郡新宮町立花口1275
道雪は筑後柳川攻めの陣中で病死しました。遺体は道雪の盟友、太宰府宝満城城督の高橋紹運らの手によって丁重に運ばれ、立花山の麓の梅岳寺に埋葬されました。画像の3つある墓石の内、右端墓石が戸次道雪。中央に道雪の母、養孝院。左端が道雪の右腕となった薦野増時の墓。



米多比(ねたび)城址
福岡県古賀市米多比634
道雪の重臣で立花山城在番衆の米多比鎮久の居城。在番衆とは立花山城の警備や普請を担当する土豪の事で有事の際は主力となって戦いました。米多比鎮久は道雪、宗茂の二代に仕え、後に立花姓を賜ります。



立花山城址
福岡県糟屋郡新宮町立花山
永禄十一年(1568年)、豊後の大友宗麟の重臣であった立花山城の城督、立花鑑載(あきとし)が宗麟に反旗を翻し挙兵。 この乱を鎮圧した道雪は新たに立花山城の城督として任じられ立花氏の名跡を継いで筑前経営を担っていきます。その後、娘の誾千代に城督の座を譲った事で女城主誾千代が誕生しました。さらに婿養子として誾千代と夫婦になった高橋統虎(むねとら)が立花氏の名跡を継いで名実共に第9代立花山城城督、立花宗茂となったのです。





大神(おおみわ)神社
福岡県福岡市東区高美台2-24-1
永禄十年(1567年)9月、宗像水軍が立花山城を攻略するためにこの大神神社に布陣しました。これを受けて立花山城の第7代城督の立花鑑載の寄騎、怒留湯融泉(ぬるゆ ゆうせん)は立花山城の白嶽を打って出て宗像軍と対峙、戦闘に至りました。一進一退の攻防の末、宗像軍が退却し、怒留湯融泉率いる立花軍が勝利を収めます。(上和白の戦い) 元来、大神神社は立花城主の守護神として崇敬されており、立花軍が陣を張ったという説もある事からこの地において熾烈な陣取り合戦が繰り広げられていた事が窺われます。また、大神神社付近には陣畑・陣作など地名があったとも伝えられています。


薦野(こもの)城址/(小松岡砦跡)
福岡県古賀市薦野1386−18
道雪の重臣で立花山城在番衆の筆頭、薦野増時の居城。在番衆とは立花山城の警備や普請を担当する土豪の事で有事の際は主力となって戦いました。 薦野増時は道雪の軍師を務めるほどの知恵者であったと伝わります。道雪自身も自らの後継ぎとして養子に指名するなど絶大の信頼を寄せていましたが、増時は御家騒動を懸念してこれを辞退しました。 現在も立花山山麓の梅岳寺の墓地では道雪を守るようにしてその傍らで眠っています。




独鈷寺(とっこじ)薬師堂
福岡県糟屋郡新宮町立花口1125
六所神社の境内にある独鈷寺の薬師堂。神仏習合文化の一端を垣間見る事が出来ます。道雪の側室、色姫が寄進したと伝わります。


野田若狭(勘慶)の墓
福岡県古賀市青柳2938
立花山城在番衆の一人、野田若狭の墓。野田若狭は道雪の家臣で御殿医(大名などに仕える医者)も務めました。道雪の命で病弱であった色姫の世話役となり、近隣の民からも勘慶様と呼ばれて慕われていました。

